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「ブラックマンデー」ってなんだ? 30年前の米株価大暴落

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 今から30年ほど前の1987年10月19日、ニューヨーク株式市場で史上最大規模の大暴落が起こりました。この日は月曜日であったことから「ブラックマンデー(暗黒の月曜日)」と言われています。

 大暴落が起こったその日、米国の代表的な株価指数である「ダウ工業株30種平均」の終値は前週末に比べて508ドル下落、値下がり率は22.6%と過去最大の暴落を記録しました。この大暴落は、日本をはじめとするアジア、欧州の各市場へと波及していき、世界同時株安につながりました。

 この世界同時株安の引き金となったブラックマンデーは、なぜ起きたのでしょうか。まずは当時の背景を見ていきましょう。

「ブラックマンデー」が発生した1980年代の米国

 1980年代初めの米国は財政赤字と貿易赤字のいわゆる「双子の赤字」を抱えており、失業率も高い状態で、また、経済が停滞している中インフレが進むという「スタグフレーション」に悩んでいました。

 そこで、1981年に大統領となったロナルド・レーガンは、①支出の削減(ただし、防衛費は増加)、②減税、③規制緩和、④通貨供給の抑制(インフレの抑制)の4つを柱にしたいわゆる「レーガノミクス」を進めることで経済の再建を目指しました。

 インフレ抑制のための金融引き締め策により金利は上昇し、投資マネーが米国市場に流れ込んだことからドルの需要が高まりドル高が進みました。ドル高により輸出が減少する一方で輸入は増加となり、貿易赤字は拡大していったのです。

 この貿易赤字を解消するためにはドル安に誘導する必要があります。このドル安に誘導する議論を行った場が「プラザ合意」でした。

プラザ合意からルーブル合意、そして大暴落へ

 1985年9月22日にニューヨークのプラザ・ホテルに米国、当時の西ドイツ、フランス、英国、日本のG5(先進5ヵ国蔵相・中央銀行総裁会議)が集まり、為替市場のドル安誘導の話し合いが行われ合意に達しました。これが「プラザ合意」です。

 プラザ合意では、為替をドル安に誘導することで米国の貿易赤字を解消することを目的としていましたが、ドル安は進んだものの貿易赤字についてはそれほど改善することはできませんでした。
プラザ合意後にドルは下落が続き、プラザ合意前の1985年8月末に1ドル237.1円であった為替レートは、1年後の1986年9月末には153.63円まで下落しました。

 しかし、ドル安を背景に米国経済は再びインフレ懸念が高まっていました。これ以上のドル安に各国も危機感を抱き、1987年2月22日、パリのルーブル宮殿でG7(先進7ヵ国蔵相・中央銀行総裁会議)が開催され、プラザ合意で進んだドル下落を止め、為替レートを安定させるために協調政策をとることを決定しました。

 ルーブル合意で、G7の協調政策は順調に進むかに見られましたが、実際は長続きしませんでした。というのも、G7の1つである西ドイツでもインフレ懸念が高まっていたからです。

 1987年9月、西ドイツは米国の反対を押し切り、インフレ対策として金利引き上げに踏み切りました。これを受けて各国の株式市場では「G7の協調政策は破錠したのではないか」との懸念が急速に広がりました。

 この西ドイツの金利引き上げから1ヵ月後、1987年10月19日にブラックマンデーが起こります。

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